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合戦の交渉時にも活躍した家康の「側室」たち

学び直す「家康」⑦

■家康の死後も特別な扱いを受けた「阿茶の局」

 

 家康の側室のなかで、もっとも注目されるのが阿茶(あちゃ)の局(つぼね)である。

 

 天文24年、阿茶局は武田氏の家臣・飯田直政(いいだなおまさ)の娘として誕生した。直政は武田氏の家臣だったが、武田氏と今川氏の和睦に伴い、今川氏の家臣へと転じた。

 

 そのような縁もあって、阿茶の局は天正元年の19歳のとき、今川氏の家臣・神尾忠重(かみをただしげ)と結婚した。ところが、忠重は4年後に死没し、阿茶の局は子の猪之助(いのすけ)とともに路頭に迷った。そのときに手を差し伸べたのが徳川家康である。

 

 阿茶の局は請われるままに、家康の側室となった。阿茶の局と称したのはこの頃である。しかし、家康との間には子宝に恵まれず、天正12年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いの陣中で流産した。天正17年(1589)、家康の側室・西郷局(さいごうのつぼね)が亡くなったこともあり、秀忠、忠吉(ただよし)の養育を担当することになった。

 

 阿茶の局は大変聡明な女性であり、大奥の統制にも力を振るった。また、政治的な場面でも、力を発揮している。慶長5年の関ヶ原合戦で、小早川秀秋(こばやかわひであき)が西軍を寝返ったが、仲介を行ったのは阿茶局であるとの説もある。

 

 慶長19年にはじまった大坂の陣では、家康の意向を受けて、本多正純(ほんだまさずみ)とともに和議の交渉役を担当した。その後、板倉重昌(いたくらしげまさ)とともに大坂城へ赴き、豊臣秀頼(とよとみひでより)・淀殿(よどどの)から誓紙を受け取ることもあった。

 

 家康の死後、側室はすべて落飾したが、家康の遺言があったので、阿茶の局は特別扱いだった。出家しないまま雲光院(うんこういん)と号したのも特例だった。その後の活躍も目覚しいものがあった。秀忠の5女・和子(かずこ)が後水尾(ごみずのお)天皇に入内(じゅだい)する際には、母代わりに入洛した。また、従一位を後水尾天皇から賜ったことも知られている。

 

 寛永9年に秀忠が没すると、正式に落飾した。亡くなったのは、寛永14年である。

 

監修・文/渡邊大門

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より

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